Cobalt's Photolog

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写真の撮り方と写真の見方

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写真には、「記録」と「表現」のふたつの価値があります。

 

写真は、ある人が存在した、あるモノが存在した、出来事があった、光景があった、という時間の流れで変わってしまう事実を、二次元の視覚的情報で残すことができます。記録的な価値は、その事実が珍しい場合、再現できないものであるときに高くなります。

 

例えば、誰も見たことが無い宇宙人の姿を写真に収めた場合、その写真の価値はものすごく高いものになります。あるいは大きな事故の瞬間を、たまたま撮った写真も、価値が高いものになります。ここでいう価値の物差しは、誰かがその写真にお金をどれくらい出すか、という基準で考えています。

 

 

一方「表現」としての価値は、見る人に何らかの感情をもたらす写真が持っています。写真を見て、誰も何も感じないのであれば、価値はありません。その感情とは、驚きであったり、楽しさであったり、笑い、癒し、畏怖、神々しさ、いろいろあります。

 

たとえば美しい風景写真見ると、自然の偉大さや人間の存在の小ささ、美しく感じる色彩など、見る人の心に何かの感情を呼び起こすでしょう。

 

風景写真を撮るカメラマンは、そうした感動をわかせる作品を撮るため、誰も行ったことのない未踏の地に珍しい風景を探したり、最高の撮影条件を求めて、時間をかけて作品を撮ります。知識と技術と行動力を総動員して写真をつくるわけです。

 

しかし表現としての写真は、「作品の価値=感動の量」と定義すると、写真を撮るためにかけた労力と、作品の価値は必ずしも比例しません。わかりやすい例でいえば、天体専門のカメラマンが星空を美しく撮ったとしても、星空に関心のない多くの人にとっては単なる夜空の写真でしかなく、カメラに詳しい人でなければ、その撮影の苦労や機材の優秀さはわかりません。

 

今では小さな子供でも、デジカメで写真を撮ることが出来ます。何年も写真を趣味にしているおじさんの写真よりも、子供が撮った写真のほうが、感動する写真だったりすることもあります。子供の世界のハプニングの写真は、だれしも共感を覚えやすく、そこにあるおかしさなども多くの人が理解できるからです。

 

一生懸命頑張って写真を撮っているのに、誰も感動しない凡庸な作品しか撮れない人もいるし、適当に撮っているのにすごく面白い写真を撮る人もいます。高い機材が素晴らしいい写真を生み出すわけでもありません。そんなに労力をかけてないけど、人の感動を呼び起こす写真を撮ることもできます。そんなところに、写真という世界の面白さがあると思います。

 

写真をみる感性は人によって様々です。生まれて今まで見てきたもの、経験したこと、価値観や人生観、今まで育ってきた環境、読んできた本、観てきた映画、いろんな要素でその人の感性がつくられています。

 

文学の世界で例えるとわかりやすいかもしれません。ラノベしか読まない人と、古典も含めて文学作品を幅広く読んでいる人では、小説の楽しみ方は全く異なりますし、面白いと思う物語も違います。音楽もそうですね。いろんなジャンルに親しんでいる人と、歌謡曲しか聞かない人では楽しみ方が違います。

 

 

 

写真やアートの世界も、いろんな作品を観て、知識が深まると脳の楽しむところが複雑になって、感じる所もかわっていくのだと思います。

 

写真を撮るときには、何をどんな風に撮るか、と技術的なことを考えて撮ることが多いのですが、写真は撮ることが目的ではなく、観ることが目的であるという当たり前のことについて、最近考えるようになりました。

 

昔フィルムで撮っていたときは、フィルム代と現像代、プリント代など費用がかかるので、写真は必要なものしか撮らなかったものです。見るべき写真をプリントすることがゴールでした。ところがデジカメになると、何枚撮ってもコストがかからないし、モニターでどの写真でもいつでも見れるものですから、同じような写真を何枚でも撮ってしまいます。

 

結果的に、いつ見るか、もしかしたら二度と見ることのない写真が、何万枚もハードディスクに溜まっていってしまうということになります。

 

アマチュアカメラマンは、写真を買ってもらえるわけではないので、どうしても撮ることばかりが中心になっています。しかし本来の写真は、記録にしろ表現にしろ、見ることは写真の目的であるはずです。何のために写真を撮るのか、どういうようにそれを見るのか、そのあたりをよく考えないと、デジタルカメラの趣味は迷走してしまいそうです。