写真家・石内都さんの「見える見えない、写真のゆくえ」という作品展を大谷美術館へ観に行きました。
石内都さんは1947年生まれの有名な写真家らしいのですが、私は存じ上げませんでした。実はこの展示会に行くつもりはなかったのです。予告記事には石内さんが母親の遺品を撮って作品にしている、というような内容だったので、なんだか辛気臭くて気が滅入る作品だろうなと勝手に想像していました。
それなのに結局行ってしまったのは、気が変わったというより、たまたま近場を通っていて、大谷美術館の庭で新しいレンズの試し撮りをしようと思いついたからです。そのついでといっては失礼かもしれませんが、作品展ものぞいてみることにしました。
これがチラシです。ちょっと行く気になれないデザイン。
しかし展示作品はとても素晴らしいものばかりで、心の琴線に触れました。
もうちょっと魅力的な紹介文なら、行ったと思うのですが、アート作品の魅力を文章で伝えるのは難しいと思います。チラシのデザインやコピーも、いまひとつだと思います。
私が感じた石内都さんの作品の魅力は、端的に言うと、モノを通じて人の気配や時間を写した写真でしょうか。
例えば以下の写真。原爆による被爆者の遺品を写した「ひろしま」シリーズの写真。
私が好きな写真家のティルマンスであれば、構図と服の色焼け焦げのバランスを絵画的な魅力にする作品を撮ると思うのですが、石内さんの作品から感じるのは、視覚的な魅力ではなく、持ち主への思いを想起させる引力のようなもの。
構図や布の置き方、プリントの存在感によって、単なる遺品の写真というより、この服はどんな女性が着ていたんだろうか、原爆で亡くなってしまったんだろうか、というような想像が自然に頭の中に生まれてくるのです。
衣服は人間の体を覆うものなので、モノの中で最も人の姿をイメージさせる媒体です。しかも汚れたり焼けたりした衣服。持ち主の運命について考えざるを得ません。そういうモノの写真から人の物語を語らせるという写真のアプローチを、とても新鮮に感じました。
そのアプローチをより意識させたのが、この「ひろしま」シリーズの部屋に、フリーダ・カーロの遺品を被写体としたシリーズを対比させるかのように展示してあることでした。原爆の「ひろしま」シリーズからは、いろいろと頭の中に空想が広がるのですが、フリーダカーロの遺品からのイメージはあまり発展しません。スペインやフリーダカーロについて詳しくないので、ヒロシマの原爆ほどのイマジネーションはないのです。
それを考えると、つまり石内さんの作品は、鑑賞者の持つ記憶や文化を使うことを前提としているということです。というのは私の個人的な解釈なのですが。
全国の赤線跡(旧遊郭)を写した「連夜の街」シリーズも、写真を見ながら様々なイメージが私の中に生まれました。子供の頃にまだあった昭和初期の古い建物やなんかの記憶です。荒いモノクロプリントの質感と被写体の組み合わせがよいですね。
最近の薔薇やサボテンを撮った新しいシリーズも、枯れかけの花を被写体にするなど、時間を意識させる作品で、魅力的に思いました。
最初は行くのをやめようと思っていたのに、行ってみるととても感銘を受ける素晴らしい作品ばかり。石内さんの写真集を何か買ってみようとアマゾンで物色中です。
さて、そういう芸術家さんとは比べ物にならないレベルの私の写真の話です。最近買ったNIKKOR Z 35mm f/1.8 Sの試し撮りを、大谷美術館のお庭で行いました。ボディはZ5です。
ここの庭はほんと綺麗に手入れされていて素晴らしいお庭。
f13まで絞って撮りました。単焦点らしい隅々まで綺麗な画像です。 こんな造園できる人すごいです。
単焦点のメリットはボケの出方なので、花など撮ってみました。f3.5です。背景のボケがうるさく嫌な感じがしません。このあたりはズームと違うところ。
絞り値を変えて撮ってみました。まずf2.5で紫陽花を撮りました。左上の光も丸く綺麗にボケています。
f5.6に絞った写真。紫陽花全体がクリアになりました。絞りはこれくらいのほうが良いですね。
f10まで絞った写真です。
絞りを変えて、表現を変えるのはやはり単焦点レンズです。ズームも便利ではありますが、単焦点レンズの表現力の良さも再確認です。新しいレンズでしばらく楽しめそうです。